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夜行列車メモリーズ
■「ブルートレインものがたり」 種村直樹 〜第6回 ブルートレイン北へ

「鉄道ジャーナル」1973年(昭48)7月号より

※以下、料金・名称・呼称・役職名などは原則として「鉄道ジャーナル」掲載当時のまま。ただし「注」は今回の掲載にあたり著者が加えたものです。

ブルートレイン北へ

 新幹線・東京−新大阪間がはなやかに開業した1964年(昭39)10月1日のダイヤ改正は、ブルートレイン史上にも画期的な1ページを記録した。初めて東北本線に夜行特急〈はくつる〉がブルー編成でデビューし、青い軌跡がみちのくに伸びたのだ。このため、固定編成特急の代名詞として使われていた“九州特急”という呼び方は実情にそぐわなくなり、“ブルートレイン”という言葉がクローズアップされた。それまで一部でささやかれていた“ブルートレイン”が、固定編成特急の意味で国鉄の発表ものなどにも登場するようになる。

 同時にシニセの九州路でも、〈みずほ〉の大分ゆきを独立させ、東京−大分間に〈富士〉を新設した。おそまきながら栄光の愛称“富士”も、東京−宇野間電車特急廃止のおかげでフリーになり、ブルートレインの仲間入りをしたのである、

〈はくつる〉は急行〈北上(きたかみ)〉の格上げで、それまで〈あさかぜ〉〈さくら〉として活躍していた車両の一部をまわして組み合わせた関係から、電源車・一等寝台車・食堂車・二等寝台車6両・二等座席車2両の11両編成であり、九州特急より2両短いスタートだった。1年後の1965年10月には姉妹列車の〈ゆうづる〉が、急行〈北斗〉を格上げし常磐線経由で誕生、お姉さん格の〈はくつる〉とともに一人前の13両編成となった。

〈はくつる〉〈ゆうづる〉は、従来の〈はつかり〉が早朝深夜に青森で連絡船乗り換えだったのに対し、東京発は夕方、着は朝で、東京の時間をフルに使えるビジネス・ダイヤが好評を博した。

 ふたたび南に目を向けると、1965年10月に〈さくら〉の編成の半分を肥前山口で分割して佐世保へも乗り入れ、〈富士〉を日豊本線経由で西鹿児島まで延長した。また新しい試みとして、新大阪−長崎・西鹿児島間に新幹線接続のブルートレイン〈あかつき〉が登場した。関西と九州を結ぶ初の夜行特急で、急行ラッシュの時間帯を避け、北九州や博多を深夜に走るダイヤであった。

 こうして北から南まで8往復にふえたブルートレインは、“ヨン・サン・トウ”――1968年(昭43)10月の白紙ダイヤ改正まで現状維持が続く。その間、1967年(昭42)10月には電車寝台特急が登場し、ファンの関心もそちらへ移っていた。

 さて1968年10月の改正では、満を持したようにブルートレインは一挙に3往復ふえた。まず九州関係は、東京−博多間に〈あさかぜ〉1往復増発で〈あさかぜ1号・2号〉となり・新大阪−宮崎間に〈彗星〉、新大阪−西鹿児島・佐世保間に急行〈西海・雲仙〉の格上げで〈あかつき2号〉が走った。また〈はやぶさ〉の編成の半分は鳥栖で分割、長崎へはいった。

 ユニークなのは、日本海縦貫線経由で大阪−青森間に初めてブルートレイン〈日本海〉を新設、僅か9両のミニ特急だったが1969年(昭44)10月には13両になった。一方、上野−青森間の〈はくつる〉は電車寝台化され、ブルートレインは、下り〈ゆうづる2号〉、上り〈ゆうづる1号〉だけになった。これは、ブルートレインが廃止された唯一のケースである。

 この“ヨン・サン・トウ”から、ブルートレインの新性能ブレーキの使用を始め、最高速度95km/hが110km/hに向上し、一部でスピードアップも実現した。

 1969年5月には、一・二等級制が廃止されてモノクラス化され、ブルートレインの編成も、A寝台・B寝台・グリーン車・普通座席車の呼び方に変わった。

 1970年10月、こんどは奥羽本線経由の上野−青森間ブルートレイン〈あけぼの〉が登場。山陽路には、急行〈安芸〉を格上げ延長して東京−下関間に〈あさかぜ〉1往復を増発、〈あさかぜ〉シリーズは1〜3号の3往復となり、最盛期の姿が整った。また新大阪−宮崎間の〈彗星〉は都城まで延長された。これでブルートレインは総勢13往復となった。

 この年のニューフェイスのダイヤには、たとえ大きな駅であっても、深夜は通過として、客扱いをしないという試みがとりいれられた。東京−下関間の下り〈あさかぜ3号〉と上り〈あさかぜ1号〉は京都を通過、〈あけぼの〉は福島も通過扱いで、大宮−新庄間ノンストップの形の時刻表ができあがった。もちろん機関車の付換えや乗務員交替などで駅には停まりはするのだが、ドアは開かない。とくに客からの苦情はなかったようすで、これをきっかけに特急の深夜停車駅は急激に減ってゆく。

 列車がふえれば、さまざまな事故も起こる。1969年6月24日、東京ゆき〈富士〉が山陽本線・防府−富海間を走行中、ナハネ20形の床下から火が出ているのをカレチ(客車列車長)が発見、急停車して消しとめたが火は窓までまわっており危ないところだった。客が煙草をクーラーのダクトに突っこんだため油に燃え移ったのが原因。1970年12月25日には都城ゆき〈彗星〉が下松−櫛ヶ浜間で熊本ゆき電車特急〈明星1号〉とすれ違ったとき、12号車のB寝台車のガラスを破って異物が飛び込み、お客1人がヤケドと打ち傷を負った。〈彗星〉11号車の制輪子が破損し、飛び散った破片が〈明星1号〉のボディにぶつかって、はね返ったものだった。

 このほか、雪でダイヤが乱れた夜の追突事故、食堂車の従業員が温水器に水を入れるのを忘れて空(カラ)だきした火災、B寝台の中段の留め金がはずれて落ち、すわっていた客の頭にけがをさせたケースなどもあるが・幸いブルートレインは悲惨な死傷事故に見舞われていない。もっとも、ルーメットに強盗が押し入って客を縛りあげたような、不名誉なトラブルもなかったわけではないが――。

●「ブルートレインものがたり」は、直接取材のほか、つぎの資料を参考にしました。
『国鉄線』1957年(昭32)9月号、1958年(昭33)10・11・12月号/『国鉄通信』1966(昭41)8月22日号「ブルー・トレーンの歴史」など/『鉄道100景』上巻「動くホテル・ブルートレーン」/『列車年表』1972年(昭47)10月(国鉄本社列車課編)/『日本国有鉄道百年史年表』


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