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夜行列車メモリーズ
■「ブルートレインものがたり」 種村直樹 〜第5回 ブルートレインの成長

「鉄道ジャーナル」1973年(昭48)7月号より

※以下、料金・名称・呼称・役職名などは原則として「鉄道ジャーナル」掲載当時のまま。ただし「注」は今回の掲載にあたり著者が加えたものです。

ブルートレインの成長

 1958年10月のダイヤ改正は、新編成の〈あさかぜ〉が、姫路まで電化が進んだおかげで東京−博多間を15分スビードアップし、17時間10分。東京−長崎間の〈さちかぜ〉は〈平和〉と改称し30分短縮。〈あさかぜ〉の使っていた古い車両で、東京−鹿児島間に〈はやぶさ〉が新設され、22時間50分で結んだ。11月1日には、東京−大阪・神戸間にビジネス特急と呼ばれた旧〈こだま〉が2往復走り、東京−大阪間も6時間50分、最高速度110km/h、表定速度81.9km/hに達した。また10月10日から、初めて上野−青森間に常磐線経由の特急〈はつかり〉が新設され、〈こだま〉の登場で役目を終えた不定期特急〈さくら〉は廃止された。

 ついで1959年(昭34)の夏季輸送が始まる7月20日から〈平和〉が固定編成に変わり、ブルートレイン2号となって、その名も〈さくら〉と改めた。〈さくら〉は戦前の三等特急の伝統を受けつぎ、13両中三等寝台車7両・三等座席車2両と、大衆車を9両組み込んだ。利用者の声で〈あさかぜ〉よりベッドランプを明るくするなど改良も加えた。戦後、臨時や不定期特急の愛称に使われまごまごしていた〈さくら〉も、ようやく所をえた感じだが、気の毒なのは〈平和〉であった。平仮名時代も漢字時代も、うたかたのうちに消え失せ、もう一度1961年(昭36)に大阪−広島間の気動車特急として、平仮名で一時復活しただけで、はかない生涯だった。これを見て「日本の将来を象徴するようだ」と皮肉るむきもあった。

 ところで、僕が初めてブルートレインに乗ったのはかなり遅れて1960年(昭35)1月、〈さくら〉の三等座席車だった。それも豊橋−京都間の中途半端な区間だが、社会人になりたてでなかなか自由に動けず、ようやく待望の対面が実現したのであった。そして、今は姿を消してしまった三等座席車の優れた居住性に目を見張ったのである。

 はっきり印象に残るのは、グリーン車(当時の二等車)と同じように座席の床が通路より一段高く、背ずりも深かったこと。ただそれだけで、きわめて豪華な感じがした。その時は居心地をよくするために座席の床を上げたと信じていたのだが、真相は座席の下にクーラー関係の機器をおさめたので床が高くなり、通路まで上げると車内販売の手押し車が通りにくいため、他の車両と同じレベルまで通路を下げたのだった。

 いずれにしても、のちにルーメットを利用したときもこんな感激はなく、かえって息づまるような狭さにへきえきした。当時の三等座席車は寝台のほうが収益率が高いとあって、「夜行は寝台車に統一」の基本線を打ち出し、1970年(昭45)10月限りでB寝台に改造されてしまったのは残念でならない。後に東北・常磐線を走ったナハネ形のなかで、標準型より窓の小さな車両が、この改造車だった。

 さてブルートレインの草分けとなった〈あさかぜ〉と〈さくら〉は、連日満席。1960年6月のダイヤ改正で〈さくら〉は15分スピードアップし、東京−長崎間19時間50分と、20時間の壁を破った。同じとき〈つばめ〉と〈はと〉は電車化され〈第1・第2こだま〉〈第1・第2つばめ〉と改称、東海道本線軌道強化の完成で東京−大阪間は6時間30分、表定速度86km/hにスピードアップ、東海道だけを走る客車特急は姿を消した。なお、この年7月1日から、従来の一・二・三等級制が二等級制に改められ、“三等”の呼び名が消えた。

 1960年7月20日、〈はやぶさ〉も固定編成に置き替えられ、運転区間は東京−西鹿児島間となった。ブルートレイン第3号である。この年は〈はつかり〉気動車化で暮れ、1961年10月の気動車特急大増発を迎える。このダイヤ改正は、特急による長距離高速列車網の整備がうたわれ、のちにブルートレインにつながりが出てくる列車としては、4本目の九州特急として東京−熊本間に〈みずほ〉が一般車両を使って不定期で登場。東京−宇野間には、とっておきの愛称とみられた〈富士〉が〈第一・第2富士〉として電車につけられた。京都−長崎間の〈かもめ〉は気動車に替わり、〈みどり〉〈まつかぜ〉〈白鳥〉〈つばさ〉〈ひばり〉〈おおぞら〉などが肩を並べて気動車特急としてデビューした。

 新顔の〈みずほ〉は、他の九州特急とくらべれば格段に見劣りする車両だったのに客足は好調で、1962年(昭37)10月に定期特急として認知され、翌1963年(昭38)6月には第4のブルートレインとして固定編成化、編成の半分を大分に乗り入れる東京−熊本・大分間列車となった。日豊本線に特急が走ったのは、これが最初である。

 こうしてブルートレインが次第に仲間をふやしてゆく陰には、裏方さんの苦労も少なくなかった。ケッサクなのは新編成の〈あさかぜ〉が走り出した直後、食堂車の電気レンジがさっぱり熱くならないというハプニングが起きたこと。営業局の磯崎・柳井両氏が品川客車区へ駆けつけると、コック長はかんかんだ。

「こんなもので、テキが焼けると思うか」と叫びながら、自分の手のひらを鉄板にギューツと押しつける。どうやらニクロム線の計算違いで、強力なのは京都のなんとかメーカーにしかないことが分かり、急報が京都駅へ飛んだ――。

 そうかと思うと、古河さんの心配したようなクーラー故障が、ときどき起こる。電源が切れてしまえば、車内はむしぶろのよう。そのたびに氷柱を立てるため、沿線各駅へ氷柱の緊急手配ルートを確立するよう本社指示が流れたりした。ところが氷柱を立てても温度が高くなり、顔を押しつけるくらいの効用しかなく、不快指数は増すばかり。とうとう1961年7月、クーラーの切れた上りブルートレインの客が広島駅で騒ぎ出し、ほとんど全員が下車、「冷房を直すまで乗らない」とホームにすわり込んだりしたこともあった。

 一方、〈あさかぜ〉や〈はやぶさ〉の愛称は、電報を利用するお客には迷惑がられた。〈つばめ〉や〈はと〉なら、列車名は電報用語で2〜4字ですんだのに、5字分も必要で、料金が高くなってしまいがちなのである。

 もうひとつ、先に引用した柳井さんの〈あさかぜ〉随筆には、食堂車横の公衆電話室から車外と通話するシーンがあった。車内には、ちゃんと電話器の据えつけ場所までできていたのに、電電公社との関係でついにブルートレインでは実現せず、1960年8月になって、旧〈こだま〉〈つばめ〉で陽の目を見た。その後、新幹線に引き継がれ重宝がられているのは、御承知のとおりである。

 なお、1960年にパンタグラフつきの電源車カニ22形が登場、電化区間はパンタグラフから集電し、非電化区間へはいったらディーゼル発電機をまわす二刀流を採用したが、車両が重くなって不便という結論になり、ディーゼル発電機に統一、1965年(昭40)にパンタグラフは撤去された。

●「ブルートレインものがたり」は、直接取材のほか、つぎの資料を参考にしました。
『国鉄線』1957年(昭32)9月号、1958年(昭33)10・11・12月号/『国鉄通信』1966(昭41)8月22日号「ブルー・トレーンの歴史」など/『鉄道100景』上巻「動くホテル・ブルートレーン」/『列車年表』1972年(昭47)10月(国鉄本社列車課編)/『日本国有鉄道百年史年表』


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